《前編へ戻ります》
宿り木・後編
文 West
変わってICUの外。
ここでは母親の里美が息子を失った悲しみから未だ立ち直る事が出来ずにいた。
崩折れた態勢から立ち上がる気力も無く、冷たい廊下にくっ付けたままの膝頭が零れ落ちた涙で一緒に濡れている。
「歩・・あゆむ・・・うぅ」
あまり悲しんでばかりいても先には進めないが、一緒に暮らして来た家族にすれば肉親との別れを納得するにはそれなりに時間を要するのが普通だ。どうもしなくてもこの後通夜や葬式に関する親族への連絡もあるだろうし、何より歩のいない生活に否応無しに放り込まれるのだ。
考えた末に福田は今は彼女に声を掛ける事を断念し、黙って見守った。死者があの世に旅立つ前に一時身体を休める筈の霊安室が無味乾燥な冷蔵庫に変わり、脳死の認定によって死体が臓器のデパートとしか見られなくなりつつある時代であっても、肉親との最後の別れを惜しむ時間ぐらいは平等に与えられるべきだと思う。
「兄ちゃん、すぐ出て来ないね」
男の子はあまり泣き叫ぶべきではないと思っているらしく、先程から悲しみをなるべく見せないようにしている久志。『兄が死んだなんて信じない』、そう宣言した彼は彫像のようにずっと扉から視線を動かさず、じっと歩の帰りを待っていた。
しかし、彼だって頭では理解できている筈だ。彼と歩は既に住む世界が違ってしまった。歩は確かに戻っては来るが、起きて話す事の無いただの抜け柄でしかない。
福田は手元の時計を見た。
弥栄医師が再度室内に入ってから十分近くになろうとしていた。
多少ごちゃごちゃした機材が付属しているとはいっても、たかが台である。運び出すだけなら慣れた人間でなくても2,3分もあれば充分な筈だ。久志の言う通りである。
経過時間が10分弱といっても、黄泉に旅立つ肉親との最後の対面を願った上での10分なのだ。当時者の気持ちからすれば1秒でも早いほうがいいに決まっている。
「お兄さんの遺体の乗っている手術台を押して来るだけの事だけどな。俺達では判らない処理とかあるのかもしれない」
久志に対してというよりは苛々しかけていた自分自身を納得させるように口にした。
「まさか忘れたとも思えないが・・・」
誰に聞かせるとも無しに呟いた福田。祖父母を亡くしているのでその時はどうだったかなと記憶の糸を辿ってみる。
しかし、後に亡くなった祖母ですら臨終を看取ったのは、かれこれ5年は前だ。とてもそんな細かい所までは思い出せそうもない。
ただ、そうだとしても首は傾げざるを得ない。そういったものが存在するなら、何故最初にICUから出てくる時に医師は処置しておかなかったのだろう。
「もしかして、あの子が息を・・・」
声のした方へ反射的に顔を向ける。中と繋がっている白い扉を食い入るように見つめたまま、泣き止んだ里美がいつのまにか立ち上がって夢遊病者のように焦点の定まらない目でそっちへ歩み寄ろうとしていた。
すぐさま福田の怪訝な視線に遭い、自分が何をしようとしていたか理解した様子で正気には戻った。しかし依然精神的な危うさが空気を通して伝わって来た。
中で医師が何をやっているかは知らないが、出来る限り遺族と遺体を早めに対面させるべきだ。そうしないと、時間が経てば経つ程里美達は歩の死を受け入れられなくなってしまう可能性がある。
プシュー。
福田が険しい表情を作りかけた時、鈍い音と共に医師の弥栄がようやく姿を見せた。徐々に冷たくなり掛けているであろう歩を台に乗せて前に従えている。
たちまち里美がまだ涙の跡の乾ききっていない頬も隠さず走り寄った。
「兄ちゃん!」
一転して表情をくしゃりと歪めた久志がそれに続く。兄の遺体を前にした瞬間、懸命に保っていた気丈さがいとも容易く砕け散った。
良く言われる事だが歩は本当に穏やかに眠っているように見えた。
かれこれ8年も教師を続けていればその間に多少は教え子の死も見て来た。しかし、こうやって死顔が安らかであればある程、それがただの物体に成り下がった事に対するやり切れなさが大きくなっていく。
「生きてる。生きてるわ!」
突然のはしゃいだ声。くっ付きそうな程に息子の顔に自分のそれを寄せていた里美の目が異様な輝きを帯びていた。
嘘や冗談を言っている様子は無い。だがそれは如何に母親としての里美の精神が壊れつつあるかの証明でもあると福田は思った。
よくドラマに出てくるような、機器の波形のフラットになった瞬間が臨終なら復活もあり得るが、実際はそうでは無い。現実はその後電気ショックやマッサージを行い、それでも患者が蘇生しない時に初めて医師は臨終という判断を下す。祖母の亡くなる際に手術の担当医から聞いたことだ。
(言わんこっちゃない)
内心福田は舌打ちした。危惧した通り、あの短い時間に里美は息子が死んだ可能性をすっかり彼女の頭から追い出してしまっていた。
歩の心臓が停止してからまず20分は経過していると思えた。百歩譲って彼女の主張通り息を吹き返したとしても、良くて植物人間、声を聞く事もかなうまい。生涯このままの状態で眠り続けるのだ。
「ほらっ。やっぱりお兄ちゃん、死んでなんかいなかったろ」
得意げに久志が母親に向かって胸を張って見せる。彼も明らかに兄が生きていると確信していた。
「ええ。母さんが間違ってた。本当にありがとうございました、先生」
さっきまでとは別の意味で滲み出た涙をハンカチで拭うと、里美は隣に立っていた弥栄医師に対して深々と頭を下げた。
「いえ、私は何もしてません。全てはご子息の生きたいという心が呼び起こした奇跡です」
「それでもです。本当にありがとうございます」
「・・・・」
歩にどんな姿でもいいから生きていて欲しいという気持ちは里美も久志の2人とも同じだ。そのうちの一方である母親が錯乱状態では久志の方も正しい判断が出来るかどうか怪しいものだった。
だが、何かが変だ。
「まだ一応は麻酔が効いて眠っています。が、静かに見舞って上げて下さい」
服と同じ薄い緑色のマスクを外しながら医師が言う。
見る限り弥栄医師は何か演技をしているように見えなかった。遺族に口裏を合わせている様子も感じられなかった。大体、そんな事をしても医師に何の得も無い。その場はそれでよくても、結果として遺族の心の傷を深めてしまう事になる。
“まだ麻酔が効いている”、確かに医師はそのような内容を口にした。
本当に生き返ったというのだろうか。
福田は物の考えの柔軟な方だが、それでも理科の教師の端くれだ。歩に出来れば戻って来て欲しい気持ちに嘘偽りは無いが、現代科学に反する出来事を目の前に出され、それを苦も無く受け入れるとなるとさすがに難しい。
しかし、“眠っている”というのを遺族の気持ちを推し量った上での婉曲表現とするのは、あまりに不適切だ。大体、遺族が異常な状態にあるのにそれを助長するような表現の仕方を医者がするだろうか。
自分も手術台に近付いた福田は、実験などで危険な薬剤を扱う時のような真剣な眼差しで歩の見えている部分を細かく観察した。
良く見れば歩の頬には赤みが注していた。また、微かではあるが口元を空気が出たり入ったりしている。いずれも死人の状態とは違う。
事態を見極めようとする福田の目にも歩の生き返りの事実が徐々に否定できなくなりつつある。
「ご子息が目覚められるまでまだ1時間程あると思います。その間、何が起きたかご説明致しますので、どうぞこちらへ」
ナースを呼んで病室の取り計らいを頼んだ弥栄。言われるままに福田達は彼の後を付いていった。
今は本当に眠っている歩。しかしさっきまで彼の意識は別の所にあった。
ICU内で看護婦が心停止したと沈痛な面持ちで告げたのを聞いていた。
時々ドラマの終わりで出てくるように機器の波形が水平方向の一直線に変わってしまったのも見た。その時の視線は丁度自分自身の斜め上方から見下ろす格好になっていた。テレビや本で仕入れた知識に間違いが無ければ、臨死体験、その中の体外離脱というやつだと思う。
薄れていた筈の意識が回復し、どこかで鈴を鳴らしているような澄んだ音が聞こえ出したと思ったら、しばらくすると台からその位置に視点が移動していた。
激しかった痛みは今は全く感じなかった。
他の方向を見たいと思っても自由に視線を動かす真似は出来なかった。よく本屋などで見掛ける監視カメラ、丁度あの代わりに天井に固定されたような感じである。
看護婦と年配の先生が彼の胸を何度か必死にマッサージしてはため息を吐いていた。
「DCショック」よく意味は理解出来ないがそんな言葉も飛び交った。
胸が楽なのは嬉しいが、本来なら鏡でしか見られない筈の自分自身をそうやって外から眺めているのは奇妙な気がした。手術台の上に横たわっているのは顔形からいって間違い無く歩なのだ。なのにその歩の身に起こっている事をまた別の歩がつぶさに観察し、興味深く見つめている。
身体が死んで魂が抜け出たのだろうか。それなら痛みを全く感じないのも頷ける。
困ったのは動かそうにも動かす事が一切不可能な視線だ。身体の方が動けばいいのだが、どういうわけかそれも無理だった。これではたとえ昇天しようにも出来ない。
いわゆる霊魂ならもっと自由に動ける筈なのにと何とか努力を続けると、急に病室の外へと移動した。漫画などに出てくる幽霊のように壁を突き抜けるのではなく、気付いたら視点ごとワープしていた。
そこでは見覚えある3つの顔がそれぞれに不安と闘っていた。
「歩、お願いだから帰って来て」
一心に手術中のランプの動向を見つめる里美が前で固く指を合わせ、祈るように呟く。
その彼女を時折励ましている福田。彼は元々ヘビースモーカーだが、それにしても今日は吸殻が灰皿の中で山を為していた。一見少年漫画の週刊誌を夢中で読み耽っている久志も目は笑っていない。
彼らに歩は呼び掛けた。
「僕はここにいるよ! だからそんなに心配しないで。まだ消えてなんかいないんだから」
ありがたい事に努力の成果か今度は身体が動くようになっていた。幽霊のごとく宙を漂いながら、3人の周りを代わる代わる旋回した。
久志が本に落としたままだった視線を急にこちらに向けた。もしかして気付いてくれたのかもと僅かに顔を綻ばせたのも束の間、彼は歩の後ろ、一向に状態の変化しないランプを見つめたままだった里美にと話し掛けた。
「今晩はカレーにしようよ」
驚いたように彼を見る。彼は今時の子供には珍しく、“お母さん休め”の一つのカレーが好物に入っていない。嫌いな食べ物でもない為、出されればきちんと平らげるが、自分から要求した事は歩の知る限り無い。
「・・・じゃあ手術が済んだらニンジンと布袋印のレトルトパック、買って帰らなくちゃね。確か両方とも切らしていたはずだもの」
もう一人の息子が好きで、月に1,2回口に出来る度に嬉しそうにしていたもの。里美はすぐにその意味を飲み込んだ。
兄と違って身体を動かすのが好きな性格だし、口は多少悪いけど元気で明るいから友達は決して少なくないのに、歩が家でゲーム機を動かそうとすると決まって混ざりに来る弟。
「兄ちゃん、相変わらず下手だなー。手本見せてやろうか」
いつの間にか歩のやろうとしたRPG系の代わりに入れられた嫌いではないけれど苦手なアクションやシューティングに、歩は四苦八苦させられた。もう一方のコントローラを操る久志の協力プレイが無ければとても先の面まで進めなかった。敵の弾が彼の腕では避け切れないくらい、画面のあちこちから歩目掛けて集中した。
シナリオの謎解きやどうやって戦うかがメインのRPGならこんなみっともない真似は見せずに済んだ。でも、そうやって別の誰かと同じ感情を共有している時間はそれはそれで楽しいものだった。
時々はRPGやSLGでも遊んだ。戦略の立て方や謎解きの苦手な久志にせがまれ、歩は沢山のヒントを出した。先に進めた時の弟の屈託の無い笑顔を見る度、歩の心の中にも一人でゲームを進めている時とは違う楽しさが広がった。
誕生日のケーキに立てたろうそくを毎年照れた表情で吹き消す時、母親は同じく嬉しそうな顔をする。去年の事だったろうか、もうそろそろ祝ってくれなくてもいいよと告げても、
「何言ってんの。あんたがこの世に生まれた事自体が私達にとってお祝いなんだもの。時間が経った分、感動は寧ろ大きくなってるわ」
慣れた手付きでケーキを切り分け、皿に置く。
偽物であるバタークリームでは到底出し得ない真正の生クリームの嫌味の無い甘い匂い。普段はこういった糖分や脂肪分の多いものを自制しているだけに、否応無しに食欲が刺激された。
「あんたはそんな事なんか気にしないで、長生きすることを考えなさい」
笑みと共に銀色のスプーンが押し出されて来た。全体に細くて色も白い腕、しかし良く見るといかにも主婦の手という感じで、器用に動き回る手の甲のあちこちが荒れていた。 誕生日の料理は大きな肉があったり、バター塗りのトーストがあったりと、好きだが普段はあまり口にしないように心掛けているもので揃えられている。
歩への表立った、あるいはさりげない彼らの気遣いは殊の外大きかった。
「・・・ありがとう、母さん。そして久志」
目頭が滲み加減になって、感謝の気持ちが洩れ出た。しかしその言葉すら今の2人の耳には届いていない。
歩は全神経を壁の向こうに集中した。
「帰らなくちゃ」
このままの姿で皆の所に留まっていても何も変わらなかった。再びICU、その中にある自分の身体に戻ろうと決めたのだ。
その時である。
「・・・本当に戻るの?」
「誰?」
周囲を見回しても主はどこにもいそうにない。声自体、耳を通してではなく、テレパシーのように直接頭に届けられた感じだ。
首を傾げつつも再度ICU内の自分の身体の位置を思い浮かべようとした途端、また声が聞こえた。
「せっかく死によって壊れ掛けた心臓から解放されたのに、また痛みと苦しみ、耐え難い運動制限の中に自分から飛び込む気?」
「!」
今度は声の主が誰だか判った。多少喋り方は違うが、聞き覚えのあるトーンは間違い無い。
これは夢だ。幾ら細部で現実味を帯びていようが、現実である筈が無い。自分を容赦無く責めて来る相手が当の自分自身だなんて。
空気が揺らぎ、今まで鏡でしか会った事の無い人影が現れる。彼は歩と全く同じ、薄めの青色の手術着を身に付けている。
無視しようとしても、ネジで固定されたように視線を外せなかった。
彼は悔しいくらい嫌味なくにこりと笑って閉じたままの扉を指差す。
「見て。最初で最後の対面の為のドアが開く」
少し経って開いたドアから出て来た医者に藁にもすがる眼差しが向けられる。今度発作が起きた時が恐らく最後の時だと理解できていても、小さい頃から育てて来た人間として里美は一縷の望みを抱いていた。
「先生! うちの歩は! 歩はどうなったんですかっ!」
「・・・残念ですが」
「・・・そ、そんな・・・どうして・・・・」
それがあっさり否定された時、その場にくず折れた。福田は何と言って彼女を慰めていいか判らないようだった。お馴染みの掴み所の無い飄々ぶりも今はすっかり影を潜めている。
彼が委員長の澤森を小突いた時の笑みが不意にオーバーラップした。
「兄ちゃん、死んじゃったって? 俺、信じないよ」
喧嘩する時など時々ぷくっと膨れはするけど、大抵はにこにこしていた弟の別人のように険しい顔が目の前にある。
「闘病生活に疲れ、自分の身体をワガママで酷使し、ついには命が尽きる事への恐怖感から寿命より早い死に至らしめた人間が、仮に生き返ったところで彼らの為に何が出来ると言うの? 君さえ無茶しなきゃ彼らがこんなに早く悲しみに沈む事も無かったんだよ」
ただの一言も反論出来なかった。“彼”の言う通り、明るかった彼らの笑顔を作れなくしたのは自分だ。
「さぁ、もう向こうに行く時間だ」
ブゥーン。低い音と共に黒いトンネル上の入り口が現れた。多分これが冥界の入り口なのだろう。
闇の奥、ずっと遠くの方では何かの光が煌いていた。周りの闇一色に比べ、色をくるくると変える、柔らかな、それでいて神々しいまでの眩きを持つ光の点だ。
あそこに行けば全ての苦しみを忘れられる、初めて見た光なのに歩の胸に強い確信が湧いた。
「それじゃ、行こう」
もう一人の歩が、だらしなく垂れ下がっていた歩の腕を取った。
点のような光の見える遥か前方を除き、空気も壁も黒一色に塗り込められたトンネル内。横も縦もどのぐらいの規模かも判らない通路は未だ前に向かって続いている。
空間の造りが違っているのか、ここでは病院にいた時のようにうまく浮遊できなかった。仕方なくかなりの距離を自分の足で歩いた。
疲れは感じなかった。肉体から遊離した魂だからといえばそれまでだが、どこか活力を消費しない仕組みになっているようだ。
不可思議な光との距離は一向に縮まらず、前にも後ろにも足元の様子も知れない道が延々と伸びていた。
ふと、少し前を歩いていたもう一人の彼が首を傾げる。
「おかしいな、そろそろ着いてもいい頃なんだけど」
足の運びを中止した彼が歩の方へ振り返る。
何かを問い質すような険しい眼差し。歩はひたすら黙っていた。
「いい加減、元いた所の未練は捨てた方がいいよ。このままじゃ向こうの世界にも渡れなくなるんだから」
彼と同じ顔をした人間が、呆れたように忠告する。どうせ生き返る事は出来ないんだよ、ため息と共に付け加える。
「・・・できないよ、そんなの」
歩でない歩が大きく目を見開いた。次いで責めるような目になった。
もしかしたら無理やりに連れて行かれるかもしれない、しかし一度口から出てしまったものは、もうおさまりが付かない。
『あんたがこの世に生まれた事自体が私達にとってお祝いなんだもの』
この場にはいない母親の声と笑顔が記憶の中でリフレインする。
逃げなきゃ。気付いた時には踵を返していた。
「どこ行く気。ここは人間が死ぬ前に訪れる場所、君自身の心の中のようなものだ。僕は君なんだよ。無駄だっていうのが分からないの?」
足音が叫びながら追い掛けて来た。
歩は全力で逃げた。そうしながらもう一人の彼の正体がおぼろげながら理解できた。
彼が言うにはここは歩の心の中だと言う。
重い持病を持つ自分がどうしても認めたくなかった“弱さ”、それに追い付かれなまいと、懸命にトンネルの暗闇を走り続けた。
「ハァ・・・ハァ」
歩いて入って来たトンネル。が、走っても走っても入口には着かない。
黒一色で一向に変わらない景色。けれど諦めたら本当に全てが終わってしまう気がした。
幾ら運動しても疲れないと思われた身体。しかし、全速力での疾走は実際は無い心臓にかなりの負担を掛けた。
見る間にペースが落ちる。
同時に聞きたくなかった足音が背後から近付いて来た。
「ほら、あっちにも戻れやしない」
それぐらいの事がどうして理解出来ないのかと彼であって彼でない存在が呆れた様子で告げる。
「このトンネルを抜けるにはとにかく迷ってちゃダメなんだ。また心臓が痛み出したらどうしよう、心の奥底にそういう恐怖心が存在し、それに振り回されている限り、絶対元いた場所へは引き返せないんだよ」
「そんな・・・それじゃどうすれば」
歩は地面にへたり込んだ。見えない地面は思ったより柔らかく、こうして触れていても冷たさは全く感じない。
しかしそんな事は今の歩にとって慰めにはならない。
元の世界とここでどのぐらい時間の経ち方が異なるのか知らないが、全く向こうで流れない事は幾らなんでも無さそうだ。
こうしている間にも家族は歩の死を受け入れてしまったかもしれない。
それに向こうの方が流れがずっと早い可能性だってある。その場合、もう焼かれて骨しか残っていないなんて事になったら・・・。
「おもしろいくらい恐怖心でいっぱいだね。君じゃ絶対あっちには帰れないよ」
足音が急に遠ざかって行く。
「僕は向こうで待つ事にするよ。孤独に耐えられなくなったらおいでよ」
「・・・」
足音が完全に消え去るまで歩はその場に立ち止まっていた。
あれから25インチほどのモニターの備え付けられた部屋へ案内された福田達。彼らに弥栄医師は一枚のモノクローム写真を見せた。
「前に深沢の方からご説明した事があると思いますが、歩さんの病気は心室中隔欠損と呼ばれるもので先天性の心疾患です」
モニターの写真が別の2枚に切り替わる。
「一口に心室中隔欠損と言ってもその程度により症状は様々で、ちょっとした手術を受けるだけで健常人と同じに暮らしていける人もいます。しかし歩さんのように欠損部位が広く、肺の血圧が高いと手術そのものが難しくなってしまいます」
ほらここ、随分血管が細くなっているでしょう。彼はそう言って肺の一部を指し示す。
比較検討がし易いように健常人の写真が隣にある。専門知識が無くても影の付き方の明らかな違いから歩の心肺機能が異常な事が見て取れた。
「こうなると後は点滴などの薬物療法しか無くなってしまう訳ですが、これで持たせられるのは3年がいいところです。どんな患者さんでも最後は不整脈と呼ばれる現象を起こして命を落とします。歩さんもそうなる筈でした」
そこで一旦言葉を切る。
モニターはそのままで、医師は一枚の紙を示す。一見何かの雑音とも思えるような、大きく変化しつつ小刻みに震えた波形。心電図の印刷結果だ。
こちらの方はどこが異常なのか素人目にはさっぱり掴めなかった。規則的に尖った波が間隔までは読めないが立ち上がっているだけで、このどこが乱れているのかさっぱり掴めなかった。どこをどう眺めても学校の検診結果などで見るものと同じだ。
「蘇生後に心電図に現れていた波形です。綺麗な波が出ているのが御分かりになると思います。心拍数は80くらいでしょうか。こちらと比べて下さい」
もう一枚の紙が皆の前に示される。明らかに同じ機械で出力された波形にも関わらず、今度は弥栄医師を除く全員が目を見張った。
とてもではないが人間から採った波形とは思えないような無意味な並びの信号。周期どころか波の高さすら上がったり下がったりで滅茶苦茶だ。
「敢えてこういう言い方をさせて頂きますが、臨終間際に採取したものです。不整脈と言われる症状の中でも最も危険な部類に入ります」
意識的にかは掴めないが危険という言葉が僅かに強調された弥栄医師の説明に福田達はもう一度波形を見やっていた。
2つの波形には共にデータを採取した時間が隅に打たれている。後のは先に見せてもらったものの35分程前で、弥栄医師の説明と一致する。
たった30分少々の間に全く違ってしまった2つの波形。医師はこれら2つを通して何か重大な事実を告げるつもりのようだ。
「結論を申しますと、歩さんの蘇生は只の生き返りではあり得ません。現代医学ではとても解明しきれない、治癒と言うよりは変身と呼ぶに相応しいものです」
「!」
弾かれたように福田達は驚愕に満ちた目を年嵩の弥栄に向けていた。決して太ってはいない白髪の混じり始めた風貌はいかにも経験を得てきた老医学者といった雰囲気に相応しい。その彼の口から変身というおよそ学術的でない言葉があっさり飛び出したせいで、一瞬予想もしない生き返り現象に弥栄までおかしくなってしまったかと福田は勘違いする。
あれ程息子の生き返りを望んでいた里美。その彼女ですら例外では無く、何を口にしていいか判らない沈黙に包まれた彼女は、じっと弥栄の年の割にはっきりした風貌を凝視したままでいた。
「心臓が停止した後の蘇生そのものは珍しくはあるものの一部の病気では時には起こり得るものです。それでも20分以上働きが止まった後に生き返った例はさすがに挙げるのに苦労しますが、今回歩さんの身に起こった変化はそれだけではないのです」
「・・・生き返っただけではない? もっと医学で証明出来ない事態が起きたと仰るんですか?」
驚きを露にする福田に医師は黙って首を縦に振ってみせた。そして告げる。
「だからここにお呼びしたんです。当人である歩さん、そしてお母さんや弟さんを始めとする肉親の方々。それぞれにこれから覚悟のいる重大な選択が待っています。お2人だけじゃなく、彼の担任である福田先生、あなたにも」
「・・・私に?」
「生き返ったあの子が長く生きていられない、まさかそういう事ですか?」
今まで落ち着いて見えた里美がたちまち悲痛な表情に変わって医師に詰めよった。一度は息子を亡くしかけた彼女の精神は現在も危ういバランスの上に成り立っているようだ。 歩が彼女の信じているような生き返りをしたとはさすがに理科の教師である福田は思っていない。
弥栄医師の言う通り、これだけ長い心臓の休みの後の蘇生は奇跡に近い確率になるだろうが、変身と言うのは幾ら何でも大袈裟に過ぎた。
だからこの後の弥栄医師の言葉には口がぽかんと開いたままになった。
「検査が済むまで断定は出来ませんが現在の歩さんは完全な健常体だと思われます。この先寿命まで生きられるからこそ、身体の変化が重要になって来るのです。遺伝子検査をしていないのでこれも断言は出来ませんが、恐らく歩さんは女性体になっています」
「ま、まさか・・・そんな事って」
「マッサージの時には無かった胸部の隆起を確認しました。骨格も変化しているようです。先程は動転されていたのか、皆さんお気づきになられなかったようですが」
言われれば歩の生き返った事ばかり考えが行っていた。
それに歩は元々あまり男の子っぽい容貌の持ち主ではない。母親の里美ですら変化に気付けなかったのは寧ろその要因の方が大きそうだ。
最後に弥栄は付け加えた。
「医学も皆さんが思う程に万能ではないのですよ。猛威を振るったO157にしろ、今なお恐怖の対象であるエイズにしろ、ウィルス発見前はそんな病気が現実にあるなんて信じられないと当時の研究者は口を揃えました」
弥栄医師は歩が運ばれて行ったであろう病室の方を向いた。
「確かに進歩は続けていますが、依然手の届かない部分があるのも確かなのです。どんなに今の医学に合わなかろうが起こった事を謙虚に受け止める気持ちが大切だと自分なりに考えています」
弥栄医師はすっと前に皺の刻まれた大きな手を差し出した。
「確かに例を見ない事態ですが、微力ながら私も深沢も出来る限り力をお貸しすると約束します。親御さん達もしっかりお嬢さんをサポートしてあげて下さい」
「ええ。お願いします」
里美は勿論のこと、福田も進んで若かりし頃は相当に力強くあっただろうその手を握り締めた。
光もろくに無い絶対的な静寂。
その中を歩は一人歩き続けた。
地面はそれ程固くは無かった筈。しかしこうやって歩いているとカツーン、カツーンと小気味良い乾いた響きがこだまする。立っている時と尻餅を突いた時ではまるで全く別の場所に存在しているようだ。
道は一向に変化せず、どこまでもまっすぐ続いている。少しは曲がりくねってくれれば多少は気も紛れるのに、それもない。
突然訪れたもう一人の自分との別れ。あれからどれだけ歩いたのか、見当を付ける事も出来なかった。
『恐怖心が存在し、それに振り回されている限り、絶対元いた場所へは引き返せないんだよ』
「・・・・・」
疲れた訳でもないのに、足取りがやや鈍くなった。
苦労しているのに少しも報われない事に段々嫌気が差していた。さっきもちらっと思ったけれど、家族はとっくに彼の事など一刻も早く忘れたい悲しみと共に過ぎ去る時間の彼方に押しやって、新たな人生を踏み出しているかもしれない。
どうして心臓が悪いまま産まれ出なければいけなかったのか。そうでなければ今も母親の元で楽しく笑い、弟とゲームや外の遊びでじゃれあっていたと思う。
普通の人と同じ生活など始めから出来る訳が無かった。病気に縛られたくない、障害に負けずに生きたい、そう願う気持ちそのものが彼らに縁の無いもので、そういう考えを持つ事自体、自分達が病気や障害に縛られている証拠だ。
一般人は身体を本当に壊すまで、自分に死や不自由な生活が近付いているとは夢にも思わない。だからその時になってひどく慌てる。
しかし共通している事がある。皆、自分という存在が無くなり、いた事すら人々の記憶から消えて行くのが怖いのだ。だから生きていた証をどういう形でもいいから残そうとするし、何十万も掛けて墓石を建てる。
その事に気付いた時から歩は足取りを速めていた。
誰もが生まれた時から抱いているそういった恐怖心を捨てる事など当然彼にだって出来はしない。
それでも進む事は出来た。自分にそういう弱さがあると心から認めてしまえばいい。
皆そんなものは無いと思っているから、その存在に気付かされるのが怖いのだ。
不意に闇が薄くなったように感じた。
「僕の存在を認めたようだね」
遠くに去った筈の声。もう1人の自分が目の前に立っていた。
彼はゆっくりと近付いて来た。
ここまで来ていながらとうとう黄泉の世界に連れて行かれるかと歩がひどく悔しさを感じつつも観念しかけた時。
彼の姿がぼやけ始め、同時に大きなエネルギーが身体の中心に飛び込んで来た。
今度は身体の内側から声が聞こえ出す。
「OK、特別だ。あちらに戻るのに力を貸すよ」
不意に右手が赤色の燐光に包まれる。
その瞬間、歩は思った。この自分と同じ姿の少年は自分を死後の世界に案内するのが目的ではなくて、本当は・・・。
「覚えておいて。“入れ物”に死が訪れ、それに対する恐怖心があるからこそ、人間は精一杯生きられるんだよ。その時に必要なのは本当の意味での自信、自分の可能性を信じる心なんだ」
前方の暗闇にも眩しさが生まれ、それは右手の光と歩調を合わせるように急速に大きくなっていった。
対照的に内側から聞こえる声の方は次第にかすれて行った。
「一度でも壊れたものはそのままでは修復できない。けど、自分で壊してしまったものは、また新たに自分で作り直せばいい。人間には本来それぐらいの強い意思の力があるんだ。簡単じゃないかもしれないけど、僕の存在に気付いた君なら出来るよ・・・」
最後は意識しないと聞こえないような音ともいえない波動。
「今度は違った形で会えそうだね」
そして世界が消えた。
医師との会談が終わってから20分後、寝ていた歩の腕がぴくりと振動する。
「ん・・・」
唇から寝ぼけ気味の声が洩れる。一旦は土気色にまでなった頬は今ではすっかり健康的な薄めの桜色を取り戻していた。
閉じていた瞼が幾度上下に動き、やがて大きく開いたままになった。同時にカメラのフォーカスを合わせるように視界が歩の元に戻って来る。
いかにもという感じの白塗りの天井と壁。いつの間にかどこかの病室に運ばれて来たようだ。
「歩! 気が付いたのね」
意識の目覚めを知った母親がいきなり顔を寄せて来た。
歩が寝ている間、彼女は椅子に座ってずっとベッドの隣に詰めていた。屈託の無い笑みを見せる彼女の目頭に薄く涙が滲んでいた。頭では生き返ったのだと判っていても、子供の声を再び聞けた瞬間、それなりに感極まったのだろう。
「母さん・・・」
感動していたのは彼も同じだった。さっきまでいた場所がいわゆる死後の世界なのか、それとも“彼”の言ったように心の中か判らないが、とにかく彼は現実世界に戻って来られたのだ。
どこか身体に違和感があった。もしかしたら、暫くの間自分の身体を離れていたせいかもしれない。
起き上がろうとすると、母親に止められた。
「もうしばらく寝てなさい」
台の上にあった濃い橙に熟れた柿を手に取って、包丁でスルスルと剥き始める。
待っている間手持ち無沙汰になった歩は、右手にお守りを握ったままなのに気が付いた。ゆっくり指を開いた中から、まるで相当な月日が経過したかのように、ぼろぼろになったそれが現れ、目を見張る。
皮を剥く手を一旦休め、母親もすっかりみすぼらしくなったお守りを眺めた。
「病気の方はすっかり治ってるんだって。きっと身代わりになってくれたのね。こんな事なら安産のお守りじゃないのを渡しておけば良かったかな」
「え」
「まだ気が付いてないの? 歩、あんたの身体は」
彼女は歩の胸の辺りを指差した。
思わず手をやったところ、覚えの無い膨らみを感じた。数は2つある。
下はさすがに直接調べる勇気が無かったので、服の上から触った。これでも膨らんでいるかどうかぐらいは知る事が出来る。
結果は胸と丁度逆だった。ある意味正常とも言える。
『自分で壊してしまったものは、また自分で作り直せばいい』
もう一人の自分が最後に言っていた言葉が蘇る。
生き返ってみたら性別が見事に変わってしまっていた。母親はぼろぼろになった安産のお守りのご利益の副産物と信じているようだ。
そう言えば生き返るあの時紅く光り出したのは右手だ。お守りが力を貸してくれたのだとすると納得が行く。
「・・・やり直しか」
変わってしまった事実自体は確かにショックだし、先の生活に対する不安も小さくはなかった。
けれど。
「・・・どうかしたの?」
「ううん、大した事じゃないよ」
それでも歩は再び肉親達の元に戻って来られた事の方を素直に喜んだ。あのまま男として生を終えてしまうより、例え女としての再出発でも皆と一緒に歩いて行きたい。
向こうの世界では決して見られなかった太陽の光が窓ガラスを通り抜けて歩と母親に降り注いでいた。あの光にあったような神々しさは無いけれど、たとえ不完全でも優しいこの日差しの方が好きだと今は素直に言えた。
「母さん、一つだけ聞いてもいい?」
「何?」
「僕が女の子になったと知って、喜んだ? それともがっかりした?」
じっと彼女の意図しない質問にびっくりした顔を見つめる。
すぐに応えは得られなかった。二者択一のどちらで回答すべきか迷っているのだと思った瞬間、母親の手が持っていた柿ごと歩の方へ突き出される。
「はい、剥けたわ。食べる?」
「あ、ありがと・・・」
戸惑いつつも、柿色の果肉を受け取り齧った。舌から広がったほんのりした甘味が優しく口の中全体を満たした。
用済みになった包丁がそっと皿に置かれ、小さくカランと鳴り響いた。
「前にも似たような事を言ったと思うけど、男だとか女とか、健康だとか病気だとかに関係なく、歩がずっといてくれれば私達はいいの」
差込む太陽の光と同じぐらい柔らかく温かな母親の微笑み。
その彼女が今度は真顔になって尋ねる。
「あんたはどうなの? たかが性別が変わってしまっただけで、私達と1からやり直さなきゃならないの?」
「・・・」
「歩? そうなの?」
考え事をしていた為、タイミング良く俯いた歩。明らかに否定の返事を期待していた様子の里美が不安な表情になって再度確認する。
ゆっくり顔を歩は持ち上げて行った。頬が少し熱い。
「新しい生活に慣れない分、しばらくは迷惑を掛けると思うけどさ、気長に待っていてくれる?」
幾分照れたように見える顔はきっと里美達が今まで見た事のないような生気に満ちているだろう。ここには鏡も無いのに、何故か歩はそう確信した。
母親はびっくりした目で歩を見、そして負けずに明るく微笑んだ。
「当たり前でしょ、いつも歩を側で見守っていたい、そう思ったからあんたを産んだんだもの。そんなの、何年・・掛かったっていいんだから」
彼女の目頭に何かが光ったと思った瞬間、細い腕が力いっぱい、歩の女の子としては標準的なサイズの胴を抱き締める。
それから少しして、病室に足音がもう一つ、隣にまで聞こえるようなにぎやかさで飛び込んで来た。
「兄ちゃん、起きてんの? 何で?」
廊下に洩れ聞こえた会話を聞き付け、慌てて走って来た様子の久志。手に缶ジュースの入った袋を提げている。
「ただいま、久志」
「なんだよ。後30分くらいは麻酔が効いてるって、先生言ったくせに」
どうにも納得できない様子の久志。絶対に兄の覚醒に立ち会うんだと彼は決めていたらしく、不満の度合いは大きい。
ここには医師はいないので、用事を言い付けた母親にと怒りのぶつけ所を変える。
「兄ちゃんが起きたら欲しがるだろうから、トイレついでに売店でジュースでも買って来てと頼んだ母さんも悪いんだからな。ったく、せっかくの兄ちゃんの起き上がる瞬間、見逃しちゃったよ」
ICUの外で険しい面持ちで待っていた時はついぞ見せる事の無かった軽口に近い普段の彼の口調。ゴメンと明るく謝りつつ、まだ悔しそうな顔をするその久志の相手を楽しんでいる母親。
まだ病室にいるのにもう家に帰り着いたかのごとく、眼前に繰り広げられる賑やかな光景。
(もう1人の僕、君のアドバイスはどうやら間違ってたみたいだ)
今となっては一連の異常な体験が現実だったのかどうか、記憶に残る生々しさを除くと証明できる材料が無い。
しかし出来事が実際に起きた、あるいはそうでないとしても、それがきっかけとなって生まれてこの方迷い続けていた心の中の長いトンネルをようやく抜けられた。
この先、誰かがこの荒唐無稽な体験を否定するかもしれない。だが、歩にはどうでもいい事だった。
確かなのは今の彼は先に何が待っていようと、自分のペースで歩いて行く事が出来る。
(結局本当は何も壊れてなんかいなかった。僕が勝手に思い込んでただけだったんだ)
約1週間後。
救急車で学校から病院に担ぎ込まれてから後、初めて歩は登校した。まだ真新しいからか、それとも下が気を付けていなければ下着が見えてしまいそうなスカートで、ウェストの辺りを絞った女子の制服だからか、男子のそれに比べ動き辛い気がした。
「・・・というわけで望月は心臓の方は治ったものの、今日から女生徒として学ぶ事になった。皆、特に女子にお願いするが、色々と不慣れな彼女にアドバイスをしてやって欲しい」
入って来た時から、彼女に視線が集まっていた。男子のクラスメイトが1週間程度の入院の間に女になって戻って来れば、興味を持つなという方が難しい。
心臓については両医師の話によると先日丁度新薬が発表されたとかで、歩はそのお陰で手術を受ける事が出来たと発表された。
多分この中の誰も生き返りと性転換など信じないだろう。もしもの事を考え、弥栄、深沢両名の計らいで歩は入院中に仮性半陰陽が判明した事に書類上はされている。
早い話、女として生まれる筈だったのが間違って男の子として今まで育てられた事に表面上は変わっていた。
新たな人生の象徴のように、転校生のごとく黒板の一角に書き記された歩の名前。そこには“あゆみ”と男の時とは字を読み替えたかなが振られていた。
「席も元の席じゃ男子のままだな・・・」
「あたしの後ろ、もう1コくらい机を置けるよ」
聞き覚えのある良く通る声。騎馬戦の時積極的に歩を助けてくれたまどかが一番後ろで笑って手を振っていた。
元の席に行って自分の自分の机を運ぼうとした途端、慌てた顔で委員長の澤森敦士が飛んで来た。心臓の方は問題ないし、机くらい女の子の筋力でも持ち上がらないでは無かったが、歩はここは素直に彼の好意に甘えた。
「あ、ありが・・」
お礼を言おうとした時、彼の顔がやや赤らんでいるのに気付く。
不思議に思った歩だが、彼はその正体を確かめる隙を与えず、足早に席に戻って行った。
「あ、澤森クン」
「カワイー。歩が倒れた時知ったけど、あいつ、意外とアツくて純なヤツだったんだよね。もしかして一目ぼれかな?」
入れ替わりにまどかが堂々と後ろを向いて来た。クスクスと、時折含むように敦士を見ては笑っていた。
一応HRの途中だが、事情を知っている福田は大目に見ている様子で何も言わない。
「?」
「何でもない。お帰り、歩。心臓治ったんだって。良かったね」
きょとんなっている歩を前にまだ笑いを残しつつ、それでもどうにか普段の表情に戻ってまどかが告げた。
「た、ただいま」
女子に名前を呼び捨てにされた経験が無い上、いきなりの親愛極まりない挨拶に返事がどもり加減となってしまった。
この先もっと色々な出来事が女性としての一歩を踏み出した歩に待っているだろう。始めからこれでは先が思いやられた。
が、しかし。
「今日、一緒に帰ろ」
「え、倉橋さん、部活あるんじゃ」
「何を勘違いしてるか知らないけどさ、あたしはずっと帰宅部だって。スポーツは好きだけど、一つに縛られるのイヤだもの」
ついスポーツ少女のイメージから、何かの運動部に所属しているものと思い込んでいた。あちこちの有料クラブに所属している彼女は、聞けば学校帰りのハンバーガーショップ通いが結構好きなんだそうだ。その分のカロリーは行き付けのゲームセンターのダンスゲームで解消するのが日課と言う。
「その・・・僕もやってみていい?」
たとえゲームでも自分が激しく身体を動かす事の出来る日が来るなんて今までは考えられなかった。
「もちろん。ダイエットにもなるから、彼氏の欲しい女の子にはお勧め」
「え、彼氏?」
「気付かなかった? 澤森クン、歩に気があるみたいだよ」
「・・・うそ」
「うまいカップル同士で踊ると絵になるんだ。彼、運動の方もまんざらでも無さそうだしさ、一緒に練習してみたら?」
「・・・」
女の子としての生活は思った以上にハードかもしれない。ちょっとばかり自信の無くなった歩である。
それでも長い間自分自身を縛っていた不可能という鎖が消えた今、きっと色々な可能性が増えて行く。そんな予感が彼女を優しく包み込んでいた。
(了)
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