宿り木・前編

文 West


 その瞬間教室全体がざわめいた。まともに体育の授業を受けた記憶など、小学校時代にまで遡っても得られそうもない。その歩(あゆむ)がよりによって最もきつい種目と言われる男子1500m走に自分から名乗りを上げたのだから、教室中の視線と言う視線が瞬く間に集中するのも頷ける。
「おい、どうする?」
「どうするたって・・・」
 当惑を隠せない顔と顔が寄り合って、そんな囁きが聞こえて来る。HRの最中とはいえよそ事にかまけていた生徒も少なくなかった筈だが、今現在は全ての関心が歩の方を向いていた。
 慣れない緊張から足が震え、すぐにでも腰掛けたくなって来る誘惑を必死で歩は堪えた。
「どうしても1500メートル走で無いとダメなのですか、望月(もちづき)くん」
 クラス委員長が再度歩の意思を確認する。
 出来れば他の種目、それも医師の許可が下りるようなものに替えて欲しいというのがきっとクラスを纏める立場での彼の本音だろう。先天性の心疾患を持つ歩の場合、体育祭の最中に亡くなるような事故だって、無いとは言いきれないのだから。
 それが判っていながら歩はコクリと頷いてみせた。
 無理な相談なのは自分でも判っていた。1500メートル走どころか僅か100メートルを競争して走る事ですら自分にはご法度だ。ボウリングですら、競技運動はまずいという理由で歩の場合止められている。
 でもすぐに退くのはあまりに自分が惨めで嫌だった。
 本音を言えば別に1500メートル走でなくてもいいのだ。借り物競争でも構わない。ただ、グラウンドを少しの間でいいから駈けずり回って見たかった。
 今動かなければ事態は何も変わらない。その一大決心が、震えから力がうまく伝わりきらずあまり役に立たなくなっている足の代わりに彼の全身を支えていた。
 絡み合っていた視線を解くと、委員長の澤森敦士(さわもりあつし)は優等生に相応しく告げた。
「取りあえず福田先生に相談しないと」
 命の問題が絡んでくるだけにとても生徒だけで決められる事ではないと、資料を取りに出ていった担任の帰りを待つ事に決めたようだ。
 判断が下されるまでにはしばらく掛かりそうである。その間歩は自分の一大決心を振り返った。

 爆弾発言により俄に騒がしく変わったHRだが、始まりは平穏そのものだった。
「今日は体育祭の選手を決めたいと思います」
 木曜の午後のHR、クラス委員長の澤森敦士(さわもりあつし)が良く通る声で議題を説明した。運動部でもないのに180センチの巨漢で、彼が壇上に現れた途端黒板が丁度中央で2つに割れてしまう程である。
 その後ろでは副委員長の少女、榎瑞絵(えのきみずえ)がさらさらと一面緑の背景に丁寧な白い文字を紡ぎ出していた。日付と曜日、それに今回の議題だ。
「誰か意見はありませんか」
 委員長の敦士がぐるりと見渡したのと同時に、一つ手が挙がった。
 実はその斜め後ろで歩も意見を言おうとしていたのだが、迷いから手を挙げる動きが小さく、敦士の目には留まらなかったようだ。
 彼は歩ではない少年の方に発言の許可を与えた。
 ひどくがっかりした歩だが、一方では長年の諦め癖が存在を主張し始めていた。前回の間違いなくこれまでで最大だった発作以来、あれ程固く決心したつもりだったのに、もうそれが根底からぐらつき掛けている。
 このままではいけないと思いつつも、長年に渡って掛けられた運動制限という足枷は簡単に彼を解放するような風を見せない。
 心の揺れを知られないよう押し殺しながら、彼は自分の代わりに発言を始めようとするクラスメイトの態度を暗い眼でじっと見守る。
「では、石黒君」
「体力テストの結果で決めたらいいと思います。後、陸上部や陸上経験者の人達を優先に」
 中肉中背で顔も10人並みと、どこにでもいそうな少年の提案はやはり外見に違わないありふれたものだった。間違い無くどこのクラスでも出されるだろうそれをわざわざ発言という形で告げたのは、彼が体育の成績も中ぐらいだからに過ぎない。
 その証明に最早自分には関係無いと言わんばかりの様子でさっさと座ってしまうと勝手に仲間とお喋りを始めている。
 それと時を同じくして、いわゆる運動神経が良いと言われる生徒達の間で緊張が走った。
 このクラスには陸上部が一人しかいない。皆の知る限り陸上経験者という存在も皆無で、その論法で行けば彼らの全員に何らかの種目への出場が義務付けられる事になる。
 歩は意思に反して出させられる彼らを気の毒に思う半面、明らかに羨ましく思っていた。体力テストすら受ける事を許されなかった歩には、推薦はあり得ない。
「それもそうですね。先生、体育教官室に行ってテストの成績書、もらって来てもいいですか?」
 提案そのものは道理にかなっている為、敦士が教室の後ろで煙草を咥えながら議会の進行状況をつぶさに観察していた福田教諭に是非を尋ねた。
 福田はのそっと立ち上がって煙草を揉み消すと
「そりゃ構わないが、お前達だけじゃまた小栗先生辺りに何か言われそうだしな。俺が行って来てやるよ」
「本当ですか。助かります」
 小栗教諭というのは体育主任で、筋肉質の体格といい、物の考え方といい。いかにも体育を教えるのが性に合っていそうなタイプの教師だ。根性さえあればこの世に不可能は無いと思っている。
 それだけならいいが、勝つ為にデータを見て作戦を巡らす行為は彼からすれば軟弱に見えるらしく、他人にもそれを押し付けようとする。結果、誰かそのような事を言い出そうものならさっさと運動場に出て足腰を鍛えろと烈火の如くに喚き散らす。
 そんな彼が唯一苦手としているのが教室だろうが何だろうが煙草を常に離さず、時には生徒の悪戯めいた行為を面白いからと黙認する福田である。敦士も出来れば小栗とは関わりたくなく、その自分の代わりが小栗の天敵だというのだから、福田に資料を取りに行って貰えると知って満面を輝かせるのは当然だ。
 その福田は出て行く前に一度生徒達の方を振り返った。意味ありげな視線は何故か自分の方に向けられているように歩は感じた。
 さっき僅かに手を挙げ掛けた歩の行動に福田はもしかしたら気が付いていたんだろうか。前回の診断以来迷いに迷って、その末に得た密かな決心を。
「時間が勿体無いんで俺が戻って来るまででも何人かは決めておいてくれな。もう半年近く一緒に体育の授業を受けているんだから出来るだろう」
「はい」
「それとだ。勝つ事も確かに大事だけどな、こういう普段体験できない催しは新しい事に挑戦するチャンスでもあるんだ。もしそういう奇特なヤツが現れたら足が遅いだとか何とか言って邪魔だけはするなよ」
「は?」
「お前も委員長なら、もっとクラスメイト全員を見ろって事だよ」
 首を傾げる委員長につかつかと福田は戻って来て、背中を思い切り良くドンと叩いた。しばらくの間やられた敦士は苦しそうに咳込んでいた。
 その様子を見て遠慮無しににやにやと笑っていた福田が、ふと歩の座っている教室の後ろの方を振り向いた。
 いつも通りのにやけた顔が一瞬優しげな笑みを浮かべる。今度こそ歩は確証を持った。さっきの歩の態度を福田は見ていて、彼独特の援護射撃をしてくれているのだ。
 呼吸の方は次第に収まりつつあった敦士。担任の言葉に訳も判らないままに首を縦に振った。
 福田はそんな彼を見届けると、素早い足取りで教室を後にした。
 一部始終を観察していた歩の胸が密かに高鳴った。幾ら後押しされたからといって、迷いがすぐに消える訳ではない。しかしこのままでは福田の主張通り何も変わらないのだ。
 さすがに1500のままでは福田もOKしてくれないかもしれない。が、それならそれで別の種目に替えればいい。
 急がなくてはならなかった。このまま病院の外で暮らせる時間はどのくらいかは判らないが、限られているのは確かだ。
やがて心を決めた歩はもう一度、一旦は完全に引っ込めかけた手を今度は誰の目にも判るよう高く差し上げた。

 1週間ぐらい前、もっとも新しい発作を迎えた。このまま息絶えてしまうのではないかと錯覚するような、今まで例を見ない程に酷いものだった。
 すぐさま連れて行かれた医者で採取された心電図にははっきりした異常が現れていた。エコー、そして胸部X線。共に結果は芳しくなかった。
「肺の血管抵抗が著しく上昇して来ています。このままでは遠からず心組織の壊死が始まるでしょう」
 データを見ながら医師の深沢が告げる。“壊死”という言葉に、近くにいながら今までは存在自体はぼやけていた“死”が急にはっきりした形を取って眼前に立ちはだかった。
 さっきまで歩の身体には足の付け根から心臓カテーテルと呼ばれる細い管が差込まれていた。心臓の圧を測ったり、カテーテル自体から採血をして血液中の酸素濃度を測定したりするものだが、今回は造影剤を使っての心室の働きや弁の逆流などを調べるのにも使われていた。
 麻酔をするので痛みはそれ程でも無いが、血管内に造影剤が入ってくる瞬間灼かれたような錯覚を受ける。
 その為赤ん坊や幼子の場合、全身麻酔を施す事も珍しくはないそうである。歩ぐらい大きくなっていれば当然その必要は感じないが、好きになれない事に変わりはなかった。
「まだ若干不整脈が残っていますが現在は心房細動も心房粗動も起きてはいないようです。このままの状態が続くなら今回は退院して構わないでしょう」
 医師は心電図の一角を指差して言った。そこには時折乱れはあるものの、基本的には規則的な波が写し取られていた。
 酷い状態になるとこの周期が完全にランダムになって、心拍が判断付かなくなるのだそうだ。心房と呼ばれる心臓の部分が無秩序かつ不規則に興奮している状態でそれを心房細動と呼ぶのだと言う。
 一方、心房粗動は1分に250回から350回くらいの鋸刃状の波が現れる症状だ。今回の発作は主に心房粗動の方だったが、いずれにせよそんな深沢医師の口からそんな言葉を聞いたのは今回が初めてだった。
 それだけに今回の発作がいつもと違う事は身に染みて判っていた。いつもはいずれに家に戻って行く筈の場所が、ふと帰ることの出来ない永遠の住処になってしまうのではと思える。
 “今回は”、そのありふれた言葉に含まれる意味はあまりに大きかった。

 帰り道、母親がゲーム屋に寄った。ついこの間、新発売になったばかりのゲームをねだった所、誕生日になるまで待ちなさいと突っぱねられたばかりだ。
「はいこれ」
 エンジンを切った彼女は1万円札をそっと手渡して来た。
 少し逡巡してからお金を受け取った。
 心臓がもうすぐスクラップになりそうだからといって、別に今すぐこの世から去る訳じゃなかった。そんな事はどちらにも判り切っているのに、つい不自然に笑い合ってしまう。
 車を停車したままでいるとどこからか中学生くらいの男の子が集団でやって来て、車内の歩達の事など気にもかけずに、めいめいの自転車に鍵を掛けた。
 忙しなげに口を動かしながらやがて店内に吸い込まれて行く。
 彼らの姿が見えなくなった後もしばらく迷い続けた歩は、おもむろに扉を開けて車外に出た。手の中のお札はずっと握っていたせいで、貰った時とは見違えるくらい皺くちゃになってしまっていた。
 歩の立場からすればいかにも別れが待っているようなプレゼントの受け取り方など本当はゴメンだった。次の誕生日まで生きていない、そう表現しているようなものだ。先の無い病人だと思い知らされる。
 ガラス越しに母親の視線を感じて、くしゃくしゃになった紙幣をポケットに入れた。のろのろした足取りで歩き出す。
 正直どうしてと思う。食べるものも身体を動かす事もこれだけ気を付けている自分がどうして死ななくてはならなくて、ポテトチップスやチョコをひっきりなしに口に入れ、1時でも2時でもゲームや友達との電話の為に夜更かししているような子が世間ではずっと長生き出来るのだろう。
 小さい頃は空の星や神仏に懸命に心臓を治してくれるようお願いした。しかし効果は現れず、次第に呪(まじな)いの類を信じなくなっていった。
 もしも神や仏と呼ばれる存在が本当にいて、心臓が人より弱く生まれついたというだけの理由で歩の寿命を16歳と決めたなら、彼らは生まれてからの人間の努力には一切注意を払う事の出来ないただの大馬鹿野郎だ。

 家に帰ってすぐにゲーム機の電源を入れた。ハードを作ったメーカーの3Dロゴの後、本で見て以来待ちかねた画面が目に飛び込んで来る。
 身体を動かす事の出来ない自分の楽しみと言ったら、戦闘の要素の入ったゲームである。それもなるべく派手な方がいいから、3Dものの格闘ゲームか大作と呼ばれるRPG(ロールプレイングゲーム)かシミュレーションばかりがCDラックには溜まっていった。
 まずは買って来たRPGのオープニングを見る。弟の久志もやりたがっていたゲームだ。嫌味になり過ぎない程度に細部まで描き込まれたアニメーションは良く練られたストーリー設定と噛み合っていて、雑誌の紹介通りなかなかに期待できそうだ。
 しばらくして自由に移動できる画面になった。素直な展開のゲームで街の人と話す事で話はあっという間に進んで行った。
 急にストーリーがつまらなくなった訳ではない。けれども上下左右にコントローラを動かす手は感覚がひどく薄れていた。まるで他人の手のようだ。
 画面と睨めっこをしながら確かにゲームを楽しんでいる自分がいるのに、脳が2個に分裂し、片方は別の事を考えていた。
 死ぬってどういう事だろう。
 ゲームの世界にも“死”は訪れる。しかしそれは単にHPが“0”になっただけの事で、ゲームによっては街に帰らずとも戦闘が終わった途端“1”に戻って復活したりする。
 教会の司祭が金と引き替えに掛けてくれるような蘇生の呪文も現実世界には無い。医学が発展し、次々と新しい薬が登場して来ていると言っても、それが為に院内感染や医療過誤で亡くなる人間の数だって無視できる訳ではないのだ。
 当然貰うのは相手が死亡してからという事になるが、心臓にもある程度のドナーは存在する。しかし肝心の心臓が厳しい検査基準をクリアしなくてはならない以上、結果として数は多くないし、第一患者の方に手術を受けられるだけの体力が無ければどうしようもない。
 歩の場合、是非に手術を受けた方がいいとは勧められなかった。重症の心疾患患者の場合、亡くなる危険性の方が大きい。自分は専門家ではないのだから医師の判断が間違っていたとは思わないが、こういう事態を迎えてしまうとそれも少しばかり恨めしく感じられた。
 ゲームをしている間、母親は台所で食事を作っていた。病院を出たの自体が昼過ぎでおまけに途中ゲーム店に寄った為、時計の短針が2時を回った時点でまだ何も2人は口にしていなかった。
 もっともお腹の方も大して空いて来ないのだから、多少食事時間が延びても歩としては一向に差し支えが無い。
 それより母親と向かい合って座る時間の方が不安で仕方なかった。何か話さない訳にいかないだろうし、それが病気の話題からかけ離れればかけ離れる程、真綿でじりじり締められるような恐怖感を歩も母親も味わう事になる。
 急にゲームオーバー時の曲調が流れ出した。街の外に出られるようになった途端、ロクに鍛えもせずにいきなり敵の強い場所に行ったせいだ。
 勝てるかどうかは別だが謎さえ解ければ始めてから1日と掛からずに最終ボスと闘えてしまうと記事には書いてあった。自由度がウリというやつである。
 戦闘で死なない為にゲームではレベル上げやスキルアップをする。だが充分な時間も与えられず、あまつさえ体を鍛える事すら許されない冒険者はどうすればいいのか。ゲーム内なら魔法使い系を目指す所だが、実生活ではそんな選択肢は存在しない。
 金貨や宝物、名誉を諦めればいいのか。しかし歩が欲してやまないのは何も行く先々で勇者と崇められたり、二つ名で呼ばれ恐れられるような人生ではない。好きな女の子に告白できずに悩んでいる少年、旦那の酒癖に頭を痛める主婦、過去の思い出話に花を咲かせるお年寄り、そんなありふれた生活なのだ。
 人間らしく喜怒哀楽に満ちた毎日。それすら得られない者はどうすればいいのか。
 画面ではセーブ済みのデータをロードするかどうか、文字が点滅しながらしきりに尋ねていた。
 歩はおもむろに電源のボタンを押した。一瞬で色取り取りだったブラウン管が真っ黒に塗り潰される。
 そこには歩の顔が映っている。ゲームをした後なのに、自分が笑っていない事に今更ながら気付く。
 時計を見た。始めてから15分程度しか経っていない。
 ごろんと仰向けになり、そこら辺に転がっていたコミックを手に取った。有名な育成ゲームを題材にしたギャグ漫画で、ネタの一つ一つに至るまで何度も読んで知り尽くしていた。
 だがそれなりに面白かった。ギャグというのは正解だ。ストーリーがない分、余計な事を考えずに済む。

 それからしばらくのこと。不意のノックに本の世界から引き戻された歩。
「な、なに?」
「御飯、出来たから。早くおいでね」
 扉の向こうの声は用件だけを告げ、パタパタと去って行く。
 やがて言われるままに台所に姿を現してみると、ツナとキャベツのあっさりした炒め物と、コーンスープ、それにジャガイモをベースにしたサラダが彼を出迎えた。元は昼飯なのだし、相変わらず食欲の方が湧いてこない分、これでも多過ぎるくらいだ。
「トーストは? 2枚でいい?」
 オーブンの前に立ちながら、パンの袋を持った母親が聞いて来る。本当は1枚でも充分だったのだが歩は頷いた。
「焼けたら軽くマーガリンを付けてくれる?」
 母親の様子は少なくとも今は普段通りに見えた。さっきのは取り越し苦労だったかなと考えながら、再び本の続きからページを繰る。呼ばれるまで読んでいた漫画を一緒に持って来ていた。
 スイッチをセットした母親はおかずを2つの皿に盛り付けている。その内の片方を歩の前に差し出した。
 サラダには普段より沢山のマヨネーズが和えてあるように感じられた。多分気のせいじゃないと思う。
 歩は本当はマヨネーズもマーガリンも、もっと言えばバターも好きだが、いつもは取り過ぎは身体に悪いという事で自粛していた。ただ、その都度もっと欲しそうな顔を見せてしまうから、そんな自分に母親が気付かない筈が無い。
「どう? ゲームは面白かった?」
「あ、うん。まだ始めたばかりだけど、期待は出来そうだよ。ファンタジーRPGで元々が好きなジャンルだし」
 答えながら心臓がどぎまぎ鳴った。何故かゲームを楽しめなかった事に気付かれたのではないかと勝手に疑心暗鬼になってしまったのだ。
 母親はドアの外から彼を呼んだだけで、子供部屋に入って来たりはしていない。単に感想を尋ねただけに過ぎなかった。
 いつもとどこか違ってると思うから、何でも無いものまで異なって見えて来るのだ。もうこの事について考えるのは止そうと決めた。
 そうこうするうちにオーブンの方からトーストの香ばしい香りが漂い始める。この家で使う食材は通常の市販の物ではなく生協で売っているものが殆どだから、食パン自体のものも良い。それを安物の電気トースターでは無くちゃんとしたオーブンで焼くのだから、焼いた後の味や歯ざわりはさすがに段違いだった。
「はいどうぞ。冷めないうちに早く食べなさい」
 きつね色に焼けたパンにマーガリンを薄くひいたものを皿ごと手渡された。視線は漫画のコマに落としたままでそれを受け取った。
 ジャムやマーガリンを付けなくたって、本当はそれなりに食べられた。ただ、それでも少しだけ塗ってもらう事に歩はしている。より舌が美味しく思うからだ。
 一口齧った所で、そのマーガリンに違和感を感じた。
 まずいつもより量が多い。それにいつものように舌の上に僅かな時間残らず、嫌味なく口の中で溶ける。塗られたものが植物性の脂で無い事を意味していた。
 さすがに料理でバターを使うべき所にマーガリンを使う訳にいかず、冷凍庫にはバターも少しは用意されている。慌てて皿の上に横たわっているもう一枚を指差そうとして、止めた。
「・・・美味しくない?」
 じっと見つめる母親の態度は先ほどまでの屈託無げに見えた微笑から憂いを含んだ真剣なものへと急速に変化しつつあった。
 いつ、歩の命の灯火が消えるか判らないのなら、食べ物やゲームぐらいせめて好きにさせてやろうという親心だろう。けれどその反面、自身の中にそういった思いのある事を歩に知られるのをひどく恐れてもいた。
 無理も無いものがある。遠からず訪れる息子の死を自分から認める事にそれは繋がっていた。
「い、いや。いつもより美味しいなと思って」
「・・・そう」
 表面上は穏やかな時間を過ごす2人。けれどもその内面は今まで感じた事の無い重苦しい雰囲気で満たされていた。
 これからも変に遠慮し合って、ろくに伝えたい事も伝えられず生きていくのだろうか。歩がこの世を去るその瞬間まで? そんなのは嫌だ。
 このままじゃいけない、歩も母親も。
 決心の渦巻く中、ゆっくりと2枚のパンを食べ終えた歩。サラダは多少口にしたものの、ベーコンの炒め物には殆ど手を付けていなかった。遠慮した訳では無く、本当にこれだけで腹一杯だったのだ。
 ごちそうさまとだけ言って、急いで部屋に戻る。
 具体的に何をすればいいのかまでの見当は付かなかった。だが探せばきっと何か見つかると思う。幾ら何でも1日や2日先にはまだ死は待ち構えてはいまい、それだけは多分確かだ。

 出て行ってから10分以上が経って、福田教諭が数枚の紙切れを手に帰って来た。
 歩の申し出の内容を聞かされ、いつもの飄々とした態度ぶりが嘘のように目を大きく見開いた。
「1500か・・・。そいつはいくらなんでも」
 歩の健康状態でそんな種目に出れば、間違い無く待っているのは突然死だ。そうでなくても走る競技はそれだけで禁止令が出ていた。
 スポーツはそれぞれの心臓に対する負担度に対し、幾つかのランクに分かれている。一番危険なのラグビーやフットボールなど。意外な事に100メートルなどの短距離走はここに含まれる。
 2番目が野球やサッカー。問題になっている1500メートル走もここだ。
 歩の場合、最低ランクといわれるボーリングやゴルフも満足に許されていない。その状態でそれよりランクの高い種目になど出させられる筈が無かった。
「残念だが、希望がそれでは今回は諦めてもらうしかないな」
 福田も教師の端くれだけに明らかに生徒の命を損なうような事項には許可を下せない。 結果は予想し得たが、それでも歩は悔しさに口をギュッとつむんだ。そして黙って下を向いていた。
 やはり持って生まれたハンデはどうやっても無くす事は出来ないという事だろう。頭では理解できても、しっかり堪えていないと今にも両の目から透明なものが溢れ出しそうだ。
 沈黙の中、一人の女生徒がおずおずと口を開く。どちらかと言えば活発な女の子が多いクラスの中では珍しい、大人しやかな少女である。
「あの・・・望月クン、騎馬戦じゃダメですか?」
「馬鹿か、お前。体育祭の中でも最も激しく危険な競技と言われてるんだぜ。そんなのにどうやって」
 別の男子生徒が噛み付いた。坂本修司といって運動神経には優れているが、プライドの方も異常に高く、他人の行動や意見をつい軽蔑しがちなタイプだ。
「水原は成績いいけど、それだけだよなー」
 こういう事を平気で言う。元々はにかみ屋で大人しい性格の水原千秋は見る間にしゅんとなってしまった。
「待て、田中。水原、お前のアイデアについて話してくれ」
 福田が落ち込み掛けた水原千秋を促した。
「あ、はい。騎馬戦の馬でなく乗っている方ならそんなに心臓に負担も掛からないんじゃないかなと思って。・・・素人考えですけど」
 滅多に自分からは発言しない千秋。視線が急に集まって来たのを知って、頬を赤らめている。
「で、でも、危険は危険ですし、やっぱりダメですよね」
 さっきの修司の言葉が耳に残っているのだろう。そう言ってさっさと席に付こうとした。
「この際、事故が起きた時の危険度には多少なりとも目を瞑る。それ以上の名案は無さそうだしな。望月はどうだ? 騎馬戦なら我慢できるのか」
「はい!」
 これ以上はさすがに妥協できないぞという福田の顔に、笑顔を取り戻して頷く歩。初めて運動会や体育祭と呼べるものに参加できるのだ。異論があろう筈が無い。
「よし。なら後は馬だ。男子生徒の中で誰か2人、立候補して欲しい。だが、強制はしない」
「センセ、騎馬戦の馬って3人なんじゃ」
「いいんだよ。この場合、一人は俺に決まってるんだから」
 照れ隠しに煙草を胸ポケットから一本取り出して口にし、それに火を付けながら福田は答えた。
 生徒達の全員がすっとんきょうな声と共に驚いた目で彼を見た。歩ですら例外では無い。
「当然だろ。担任している生徒の一人を多少は危険な目に遭わせるんだ。例え校長の反対を受けたって、他人に役を譲る気はない」
「・・・」
 あまりに大胆な、そして教師としての問題発言に、他の者はどう対応していいか判らずにいた。その中で歩だけは頼もしい味方を得た事に素直に感激していた。
 一心に祈る。それでも後2人の協力者が現れなければ、全てはおじゃんなのだ。
 何か起きた場合の責任は教師である福田が取る事になるので、馬を務めた人間が責任に問われる可能性はまずあり得ない。だがそれと、良心の呵責は別だ。だからこそ福田も生徒達自身の意思に任せる事に決めたのだと思えた。
 すぐさま救世主の如く、一人の男子生徒がゆっくりした所作で立ち上がる。
「僕がやります」
 彼、澤森敦士は引き締まった長身をピンと立てて宣言した。
「澤森君・・・」
 委員長にはどちらかと言うと反対されていると今まで思っていたのに。感謝と同時に驚いた。
「協力してくれるか。ありがとうな、澤森」
 元は歩の問題なのに何故か福田が丁寧に頭を下げた。対する敦士は黙って頷いた。
 これで2人だ。残り一人、何とかなるかもしれない。
 しかし、そのたった一人がなかなか決まらなかった。
 沈黙が降りたままで、どれだけの時間が経過したのか。怖くて歩は前方の壁に設置された丸い時計で確認する事も出来なかった。
「誰かいないのか」
 強制はしないと口にしつつ、いい加減福田がじれた。
「そう言われても・・・なぁ」
「やっぱり無理だって、フクちゃん。酒井、お前は?」
「何で俺に振るんだよ」
「だってお前、体育委員じゃんか」
「この際そんなのは関係無いだろ。面倒事は俺だってヤだ」
 さすがに文字通り命の問題が絡んでいるのだから、尻込みする方がむしろ普通の神経の持ち主である。だから、その事自体を避難する気は福田も歩も当然無かった。
 言えるのはこのまま終わるのだけはすごく悔しい、ただそれだけの事だ。
 沈黙以上に重苦しい時間の後、手の上がった3人目。それはある意味一人目の福田や二人目の敦士以上に意外な人物と言えた。
「何よ。黙って見てれば男ども、だらしないなぁ。それが懸命にお願いしているクラスメイトへの態度? 望月クンがかわいそうじゃん」
 彼女の名前は倉橋まどか。170センチの長身でスレンダーなボディを持つ彼女は、元気の良い子揃いの1−3の女子の中でもずば抜けた腕力と脚力を持つスポーツ少女だ。
「あたしが馬じゃ問題ある? フクちゃん」
「倉橋か。お前なら体力的な問題は無さそうだな」
 福田は歩の方に身体を向けて、まどかのいる方へと顎をしゃくった。
「どうだ、望月。倉橋はこういってるが」
 一も二も無かった。歩はあまりの嬉しくさに何度もぶんぶん首を縦に振った。
「お願い、倉橋さん。でも・・・」
 問題は本来は男子の種目である騎馬戦に女子のまどかが出場可能かどうかだが、そんな事を言い出せば担任である福田も同じ立場だ。これが終わり次第きっと福田は校長の所に直談判をしに向かうだろう。口のうまい彼の交渉能力を信じるしかないが、でも、もしだめだったら・・・。
「俺や倉橋が男子生徒向けの種目に出られるかと心配なんだろう。ま、そう暗い顔をしなさんな。ちゃんと秘密兵器があるんだから」
 笑いながら福田は歩の所へとやって来て、右肩をポンと叩いた。一瞬心を読まれたかと思う程に絶妙なタイミングだった。
「フクちゃん、教師が率先してルール破ってどうすんだよ。倉橋も女なら素直に玉入れに出てりゃいんだ。男の世界に出しゃばって来るんじゃねーよ」
 明らかな気分を害した表情で、ついさっき千秋に噛み付いた坂本修司が今度は矛先をまどかに変更した。勇ましい彼女の登場により今や澤森敦士を除く男子は残らず悪役だ。
 プライドの高い修司はそれが大いに気に入らないらしく、教室の後ろの方を向くと強く歩を睨み付けて来た。
「身体が弱いならそれなりに大人しくしてろよな。他人を巻き込むなってんだ」
「・・・・・・」
 右の拳を指先が掌に食い込むぐらいに歩は握り締め、震わせた。確かにワガママかもしれない。でも、この決心を得る迄にどれだけ悩んだかも知らない人間に幾ら何でもそんな風に言われる筋合いは無い。
 そこへ気の強いまどかが彼と敦士を援護射撃した。
「ふーん、あんた達のいう男子っていうのは、意気地が無いくせに勇気ある人間の足はさんざん引っ張る人種の事を言うんだ。それが男だってんならあたし女で良かったよ」
「おまっ! 倉橋!!」
 一瞬で茹でたタコを思わせるぐらい真っ赤になった修司は、本気でまどかに殴りかかって行った。
「べーだ。あんたのへなちょこパンチなんか当たる訳ないじゃん」
「このっ。女のくせにちょこまかと!」
 必死で修司はまどかを捕まえようとするが、運動能力、役者共にまどかの方が一枚上手だ。密かにボクシングか何かの武道を習っているのではないかと思う程軽々とまどかはパンチの雨、そして突進を避ける。
 福田が呆れた様子で叫んだ。
「いい加減にしろ、坂本!」
 普段から徹底した飄々振りを崩さない彼がこんなに青筋立てる場面も珍しい。修司を鋭い目で睨み付けている。それだけまどか同様、彼の勝手な物言いが気に障ったという事だろう。
 普段見せた事の無い、触れただけで切れる鋭利な刃物を思わせる迫力に、さすがの傍若無人な修司も身体を恐怖に強張らせて不承不承引き下がった。
 席に戻る途中、敦士の横を通った。
「お前もだ。いつも一人でいい子ぶりやがって」
 口汚く吐き捨てた後は、やけに大きな足音を立てて自分の席に帰って行く。
 敦士はそれを涼しい顔で受け止めていた。良く言われるが、この学校きっての優等生である彼には教師以外からの評価など何の意味も為さないように見えた。
 終業の鐘の音がスピーカーから鳴り響く。
「ちょっと長くなったがこれでHRを終わる。まだ出場者が決まっていない種目については選手登録の締め切りである大会の3日前までに各自で話し合って決めておいて欲しい。以上だ」
 締め括りに続いて、敦士の号令が飛んだ。
 皆の動きに合わせて頭を垂れながら、歩は要望が通った事への喜びに浸った。

「それで? もう決めたの?」
 出場の意思を告げた時の母親は意外に冷静さを保っていた。ホッとすると同時に、一抹の寂しさをも感じる。
 息子がその内この世から消え去るという事をたった一週間の間に彼女は納得する事が出来たのだろうか。
 正直言って家に帰りついてから切り出すまでに一時間以上を要した歩の方は、まだ気持ちの整理が完全に付いたとは言い難い状態にあった。
 体育祭の最中に帰らぬ人となる可能性は決して低くは無い。歩だって出来れば長く生きていたい、ただその為に今までと変わり映えのしない毎日を過ごす事だけは嫌なのだ。
「今日、先生が校長先生と交渉してくれるって。それ次第だけど、何とかなるような事を言ってた」
 取りあえず母親の了承を取り付ける事には成功したと思い、ありのままを伝える。
「そう。出してもらえるといいわね」
「ん」
 2人の前には3つのティーカップがある。それぞれにレモンティーの粉末を大さじ一杯ずつ入れ、上からポットの湯を注ぐ母親。
「久志もそろそろ帰ってきてるんでしょ。おやつがあるからいらっしゃいと伝えて来てくれる?」
 言うが早いか暖簾のすぐ脇に吊り下げられたお菓子の一杯入ったビニール袋からミニカステラを取り出してテーブルに置いた。
「OK」歩が出ようとした瞬間、小学校高学年か精々中学生になったばかりの男の子がひょこっと顔を覗かせた。
 テーブルの上のミニカステラを見つけ、目を輝かせる。言われもしないうちから空いた椅子を探して適当に腰掛けた。
「母さん、食べていい?」
 食いしん坊の弟は口に入れる瞬間が待ちきれないようだ。片時もカステラから目を離さなかった。
 良く食べる割にちっとも横が増えないのは、彼が運動部に所属しているせいだと歩は思っている。彼の学校の体育祭や文化祭は歩達より早いくらいで、その為に現在朝晩の練習は無しになっている。
 3歳差があるというのに、背の方は共に165センチで変わらなかった。
 顔も似ている2人に違いがあるとすれば兄の方は多少なりとも成績が良く、弟の久志は運動の能力に人一倍優れているという事だろうか。その代わり勉強の方はさっぱりだが。
 担当の深沢医師によれば歩の病気である心室中隔欠損自体は遺伝とは関係無く、単に10000本に1本当たりがあるくじに当選したかどうかで決まるらしい。それを証明するように、久志の方は一切の先天性の奇形が報告されていない。
 彼の事だ。きっと何種目か掛け持ちで出される事になるだろう。
 毎年運動会で活躍する弟の姿を羨ましく思って来たが、今年は違う。そして出るからには、自分だって出来るだけ多くのハチマキを取るよう努力したい。
 何だかんだ言っても歩は生まれて初めての体験に舞い上がっていた。だから母親のカップと皿がずっと小刻みな音を立てていた事にもその時は気付けなかった。

 そして迎えた体育祭当日。
「望月クン、いよいよだね。ハチマキ沢山取れるといいね」
「しっかりね。ところで身体の調子はどう?」
 弁当を食べている間色んな女子が引っ切り無しに声を掛けて来た。同性に人気のあるまどかを味方に付けた時点で、一気に女子全員と仲良くなってしまっていた。
 女の子に囲まれた彼の姿を悔しげに坂本修司は見ているが、彼には別の意味で朝から女子の視線が張り付いていて、さすがに簡単にはちょっかいを掛けて来られそうも無かった。  それに男子全員の出場が義務付けられている騎馬戦には彼自身も出なければならず、ちょっかいを掛けるだけの時間も無い。それが判っているから、見るからに不機嫌そうに脂身の多い肉をパク付いていた。
 例のHRの次の日にはこの学校始まって以来の、教師、女子生徒、心臓疾患の生徒を含む騎馬の参加の許可が下りた。プログラムが正しければ午後の2番目の種目がその男子騎馬戦だ。
 心臓の調子は可も無く不可も無い。アイゼンメンジャー化、即ち肺の血圧が危険域に達したと言われた状態から、既に2年と半年以上が過ぎていた。
 もって3年、担当医の深沢医師はエコーのデータを見ながら暗い声音で断言した。
 放っておいても次の発作は起きる。そうなったら多分人生の終わりだ。その時にこうすれば良かったという悔いだけは残さないでおきたい。
 結局深沢医師には出場の事を最後まで話せなかった。間違いなく医師は止めただろう。その時にそれを撥ね退けられる程の強さは母親も歩も自信が持てなかった。
 気を抜けば今も死への思いが染み込むように心の中と忍び寄ろうとする。とんでもない事を決心したものだと今更ながら思う。
 それでも、できる限り微笑を続けるしかない。全ては自分で決めた事だ。

 時計を見る。あまり走る訳に行かない分、歩は人より早く教室を出た。
 競技が始まってからの集合では間に合わないから、午後の部が開始されてから直に歩も入場門の所に並んだ。彼の場合特別だから、競技開始ぎりぎりの集合でも構わないと勧められたが、ここまで来た以上みんなと同じにやらせて欲しいと頼んだ。
 今朝母親から自分の時に良く利いたと言って手渡されたお守り。中身は安産だったが、こういうのは気持ちが重要だろう。
 400メートルに出場した選手達が並んで走っていくのを見ながら、無事に騎馬戦を終えて帰って来られるよういつの間にかそのお守りに祈っている自分に歩は驚いていた。
 側に立つ福田も歩の表情が教室にいた時に比べて急速に暗く変化して来ている事に気付き、眉を顰めた。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
 心臓に異変を感じた時点で出場を取りやめる、それが校長の出した条件だった。福田はその事を歩自身にも約束させていた。
「ち、違います。その・・・き、緊張しちゃって」
 せっかくここまで来たのに勘違いで出場停止にだけはなるのだけはゴメンだ。とにかく無理でも笑みを作り、全身で否定した。
 一方、そろそろ前の種目である400メートル走も終わりに近付きつつある。あちこちのスピーカーが男の声で最後に走った組の順位発表を賑々しくがなり立てる。
 歩以外の3人が素早く三角形を構成する。
「さあ、乗って」
 後列の一人を務める事になったまどかが腰を落とした姿勢のまま、歩を自分達の腕の上に招いた。
 彼女の隣は敦士だ。彼もまどかの言葉に首を縦に振って同意する。
 恐々と乗ってから、エレベータで運ばれたように急に身体が持ち上げられ、ぐぐっと視線の位置が高くなる。
 上は思った以上に揺れた。ただ乗せてもらってるだけではダメで、自分なりにバランスを取る必要があると歩は気が付いた。
 心身の双方による緊張から予想以上に心臓の鼓動が早くなった。
 入場の音楽が流れ出す。ピッピと案内役の先生達が笛を吹き鳴らした。
「さあ、勇猛果敢な沢山の騎馬達の登場です。・・・おや? 今年は1グループだけ変わった組み合わせが混じっていますね。この種目にどういう形であれ、女の子が参加したのはこれが初めてじゃないでしょうか」
 解説を務める少年はそう言って手元の資料を捲る。しかし改めて解説をされるまでも無く全校生徒の視線は始めから歩達に集中していた。
「1−3の騎馬ですね。彼女は倉橋まどかさん。騎手を務める望月歩くんの持病の心臓をおしての参加希望に感激しての出場だそうです。良く見ると担任である福田先生の姿も見えます」
 男子生徒の数がきちんと割り切れなくなった場合職員で穴埋めするので教師の参加そのものは福田が初めてという訳ではなかった。ただ、理由が理由だけにやはり前例が無い事に変わりなかった。
 歩が病気と聞いたら他の馬は厄介事に巻き込まれてはたまらないと自分から彼を避けそうなものだが、赤白入り乱れた中、皆闘いに夢中でアナウンスなど聞こえていない。それなりに敵に襲われた。
 なるべく歩の身体に負担を掛けさせまいと、息のあったフットワークで前後左右に動いて福田達は他の騎馬の突進を次々に交わす。しかしこればかり続けていても歩は一つもハチマキを取る事は出来ない。生き残り作戦としては問題は無いものの、それでは今日の主役の歩が本当の意味での騎馬戦の楽しみを知らずに終わってしまう。
 自分たちが少々疲れてきたせいもあり、そう強くは無さそうな騎馬を福田達は探した。
 しかし向こうも歩を与し易しと見たらしい。
 すぐさまにゅっと腕が伸び、赤いハチマキを奪い取ろうとする。歩も負けじと白いハチマキに狙いを定めようと努力を重ねる。
 スポーツで人と競い合うのがこんなに楽しいなんて。心臓はどんどん昂奮して行った。
 もう少しで敵の弱点に触れられるという所で歩の腕が何故か空振りした。それを見た白組の騎馬は、間を入れずに赤いハチマキを奪い取った。
 得意げに布切れを手にし、次の相手を見付ける為に軽い足取りで去って行った。
「あーっ、くそ」
 悔しげに足を踏み鳴らすまどか。ハチマキを取られたのは実は歩でなくて自分だとまるで言わんばかりの様子だ。
 福田の顔色が変わっていた。彼は逸早く異変に気付いていた。
「何やってる、倉橋! 急いで望月を下ろせ」
「ど、どうしたのよ、フクちゃん。言われなくてもそうするって」
 きょとんとするまどか。だがすぐに事態を理解した。
 負けた騎馬は生き残りの騎馬との区別を付ける為と邪魔にならない為の両方で、速やかに隊形を崩してトラックの外に出るのが決まりだが、あくまで歩いて出ていい範囲だ。それを必要以上に急がせる理由など本来ならこれっぽちも無かった。
「望月、しっかりしろ!」
 いつもの優等生口調を脱ぎ捨てて、胸部を抑えてうめく歩に声を掛ける敦士。まどかは勿論、担任の福田でさえ見た事の無い彼の豹変振りに呆気に取られていた。
「あ、ありがと・・・澤森くん。少し、苦しい・・・だけ」
「バカ、我慢している場合か! 先生、急いで救急車!」
 どっちが教師で生徒だか判らない。言われるままに頷いた福田にまどかが
「フクちゃん! あたしのケータイ使って。席に置いてあるから」
 一応は貴重品の一つに数えられるし、付いているシールやストラップなどそれなりにお気に入りでもある為、教室を出る時に一緒に持って出て来ていた。
 全速力で各クラスごとに用意された場所に掛け戻る福田。やはり顔を蒼くしたまどか、それに歩を抱えた敦士がそれに続く。
 俄に1−3全体が騒がしくなった事で、学校中に異変が知れ渡る。
「望月くんが倒れたようですが・・・大丈夫でしょうか」
 スピーカーからはそんな声も流れてきた。
 一方、歩の胸の痛みはどんどん激しくなって行った。運動をやめた筈なのに心臓がドキドキいい続けているのが、自分でも判った。
 意識が急速に闇に吸い込まれて行った。
「歩ー!」
 血相を変えて別の応援席にいた母親が飛んで来る。平日だと言うのにどうやって連れて来たのか、側には久志の姿もあった。
「歩! 歩!」
「兄ちゃん!」
 意識が朦朧としている病人の身体を揺さぶってはまずい事など、今の2人の頭からは吹き飛んでしまっている。
(そうか。やっぱり母さんも)
 母親が実は自分の死に納得していなかった事を知って、薄れ行く意識の中でふと安堵感を覚えた。そう言えばお守りを貰っていたとぼんやり思い出す。
 反射的に丁度胸の当たりにあった手を動かし、胸のポケットから小さな布袋を取り出した。右手に強く握るが、痛みそのものはますますひどくなっていく。
 今や肺を必死で動かしても全く息が吸えない。
 近付いてくる筈の喧しいサイレンの音が次第に遠ざかった。

 ランプの付いたままの手術室。病院に歩が運ばれてきてから早くも1時間以上が経過している。
「血圧70、心拍数160。呼吸数は50です」
「よし。もう一回だけ除細動を行う。30Jで」
「はい」
 外科医とナースが発生している心房細動と計器を頼りに闘う中、外では歩の母親と、弟の久志、それに福田が暗い面持ちで詰めていた。
「母さん。兄ちゃん、このまま死んでしまわないよね?」
「当たり前でしょ」
 母親はもう一人の息子に大した事ない風を装って笑いかけようとした。が、頬は不自然に引きつっており、その目は疲れ、虚ろだった。
「申し訳ありませんでした」
 最初に母親と挨拶を交わした時にもそう言って頭を下げた福田。
「・・・先生が悪いわけじゃありません。もう少し丈夫な子に産んで上げられなかった私がいけないんです」
 母親は福田と視線を合わせずに言った。止めてくれれば良かったという気持ちが奥底にあるのは否めない。
 だが、彼女自身にも理解できていた。誰が悪いわけでも無いのだ。
 歩を嗜め、2ヶ月か3ヶ月長く生きさせたところで、別の意味で大きな悔いがきっと残ったと思う。ああすれば、或いはこうすればなど、それが現実には起きていない出来事だからこそ軽々しく口に出来る事だ。
 数分後、灯りっぱなしだったランプが消えた。
 ほのかな期待が各人の胸に立ち昇った。ランプの消灯には甲斐なく亡くなってしまった場合も含まれるが、今そんな風に考えられる者はこの場にいない。
 しかし生まれたばかりのそれも険しい面持ちの医師と看護婦が大きな計器をくっつけた寝台の運び出しを開始した段階で木っ端微塵に打ち砕かれ、修復不能となる。
 歩の顔には今や酸素吸入マスクが被せられており、元気だった時の姿は見る影も無くなっていた。
「体動が始まっており、大変危険な状態です。今からご子息をICU(集中治療室)に運び入れます」
 ナースの一人が手一杯の外科医の代わりに病状の説明をした。
 数値をモニターしながら医師達は懸命に走った。こうして移動している間にも血圧の方は確実に下がって行くのだ。
 現在の表示は58。刻々と数値は低くなって行く。たった2分程度のICUまでの道のりがいつもの事ながら1kmにも感じられる。
 漸く辿りついてそのドアを開けた瞬間。
 無情にも機器の波形がフラットになる。
「患者、心停止しました」
「蘇生術。無駄かもしれないが・・・」
 そのまま扉の向こうへと消えた。

 15分後。
「だめか・・・。」
 一向に回復しない心臓部位から、外科医の弥栄(やさか)が手を離す。
 既に死後硬直が開始されつつある身体。医師の呼び掛けに答える事も無い。
 患者の家族はどう思うか知らないが、こうなってはただの死体だ。
 せめて安らかに逝ったに見えるよう、両の瞼を閉じてやる。そうすると見掛けだけはまだ眠っているように見える。
「これが本当の睡眠状態だったらな。私はいつも思うよ、何故先天性心疾患、いや病気そのものがこの世にあるのかって」
 0を指したまま動かなくなった計測器から、弥栄は目を離せないでいる。
「家族に臨終状況を説明しないと。気が重いが、これも仕事のうちだ」
 歩の顔に白い布を被せてから彼はマスクを取り外す。
 ひどく固く思えた扉を開け放った瞬間、患者の母親らしき女性がぶつかる程の勢いで彼の元へ駆け寄って来た。
「先生! うちの歩は! 歩はどうなったんですかっ!」
「・・・残念ですが」
「・・・そ、そんな・・・どうして・・・・」
 彼女はその場に崩折れる。手を差し伸べてやりたいが、そんな事をしても事態の何の解決にもならなかった。
 何度無く味わった重苦しい空気。だが、一向に慣れない。
「兄ちゃん、死んじゃったって? 俺、信じないよ」
 患者に良く似た少年が言葉とは裏腹に俯いて唇を噛んでいた。こういう時、ICUの中にある患者の死体を見せなければ結局のところ家族は納得しないのだ。
 再び扉に手を掛けた。
 ピッ・・・ピッ。
 聞きなれた音。中から聞こえて来るようだ。
 計器類の故障だろうか。
(定期的に点検に来て貰ってる筈だがな)
 とにかく止めようと機器の側に歩き寄った瞬間。
(波形が復活している!)
 慌てて視線を歩の上に落とした。頬にさっきまでは無かった赤みが注していた。
 それ以外にもどこか前と変わっているような気がちらりと頭の隅を横切った。だが、今はそれより先に確認すべき事があった。
 次いで胸部に手を当てる。
 規則正しい上下振動。信じられない事だが肺が動いているのだ。
「ん?」
 患者は16歳の少年であるし、胸部にこれほどの凹凸は無かった筈。弥栄は今度は形状を確認する方に意識を注いでみた。
 果たして2個所に丘状の膨らみがあった。
 下半身は・・・確認するまでもないだろう。ここまでで充分非常識な事態が発生している。それにもう一つ加わるかどうかの違いでしかない。
 何が起きたかは理解できた。そして患者の顔を見た時違和感を感じた理由も。
しかし肝心の原因の方は現代医学ではさっぱり掴めそうもない。
「こういうのも生き返ったというのかな」
 生命の定義を真っ向から覆すような現象に、少しばかり興味を引かれた。しかし今はこの事を外で目を泣き晴らしている家族達に伝えるのが先決だ。
 今度こそ本当に眠っていると思われる歩を連れ、彼はICUを後にした。


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